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ブラジル・米国他南北アメリカ大陸出張報告(その②:ブラジル編(2)リオ・デ・ジャネイロNo.1)~16年ぶりのリオ、日系人の活躍に感動~
1.6月19日(木)、朝食は、今回の団長・麻生太郎代議士と(写真①)。昨夜も、元民主党代議士の鈴木康友・浜松市長を含めて、今回の随行団で軽く一杯飲みながら懇談したが、麻生さんの最大の武器は“底抜けの明るさ”である。幅広い話題について、皆を笑わせながら、輪の中心となっていく。すごい才能である。政治家は、世の中を明るくさせることが第一の仕事である、とつくづく感じた次第である。

2.そして、16年ぶりのリオ・デ・ジャネイロへ。1992年の地球環境サミットの際に、米国メリーランド大学大学院を卒業した直後で、そのまま代表団の一員として手伝いに来て以来である。米国留学前にも、通産省地球環境対策室(初代)課長補佐として、温暖化問題に取り組んでいたためでもあったが、その時は1日中会議に出席していたため、残念ながらリオの街のイメージはあまり記憶にない。ただ、治安が悪い、と教えられていたことと、車で走っただけの美しい「コパカバーナ海岸」(、③)、キリストがそびえ立つ「コルゴバードの丘」()、砂糖パンの形をした「ポン・ジ・アスカール」()くらいをうっすらと覚えているくらいである。その意味で、大変楽しみにしていた16年ぶりのリオである。

3.さて、ブラジリアから空路でリオに向かうのであるが、ブラジリア空港で約1時間の遅れである。どうやらブラジルの航空行政はやや混乱しているようだ。ある雑誌の評価で世界の空港ワースト1がブラジリアだそうだが、わかるような気がする。ベネズエラの首都カラカスからトランジット(乗り換え)で寄ったアマゾンのマナウスから乗ったバリグ航空であるが、席がダブルブッキング(二重発注)しており、しかも機内のあちこちでそんな声が聞こえる。幸いビジネスクラスが空いていたため難なきを得たが、常識では考えられないことである。
ちなみに、このバリグ航空は、おそらく日本では最も有名なブラジルの航空会社だと思うが、最近経営破たんし、子会社のバリグ物流に買収されたとのことである。
また、この2~3年で何度か航空事故が起こっており、その原因は、①アマゾン地帯を中心に、移動手段としてセスナを使うしかなく、数千箇所のセスナ発着場があり、セスナが自由に行き交っているという。そして、そのセスナとの接触事故が起きたのである。②さらに、空港の経営合理化により、極端なコストダウンを行い、滑走路の整備まで手を抜いてしまっている、との指摘である。私自身、基本的には民営化はじめ合理化は賛成であるが、日本でのスカイマーク社の操縦士の待遇・不足の問題も含めて、安全面、労働面など行政による最低限の行政のチェックは必要なことを改めて認識した次第である。
(、⑦はマナウス上空から見たアマゾン河。色の異なるソリモンエス河とネグロ河が合流する部分がわかります。はフリーゾーンで発展するマナウスの市街遠景。シェア80%以上を持つホンダのバイク工場には1万人の従業員がいる)

4.昼食は、日系人の皆さん方と福川総領事主催の昼食会。ここでは隣に座られた津守(ツモリ)さんから感動的なお話を伺った()。津守さんは山口県のご出身で(ここでも、山口の話題で盛り上がった)、1960年にご夫婦で移住された「一世」である。サンパウロ到着後、収容所(宿泊所)に滞在したものの、次から次へとやってくる日本からの移民のために、すぐに追い出され、日本から持ってきたテントでの生活を余儀なくされたという。養鶏をやったりして食いつなぎながら、やがて「グアバ」づくりを始めたという。これがブラジルの若い女性に大当たりで、今や「津守種」と言われるグアバを週2回6000個を一年中出荷しているという。ご夫婦お二人に、現地のブラジル人を雇っての農園経営である。今やお孫さんも3人の幸せな生活を送られている。津守さんによると、ブラジルでの野菜づくりもサンパウロで日系人が始めたという。日系人の努力にはすさまじいものがある。改めて心から敬意を表したい。
ところで、津守さんによれば、日系人も3世、4世となってくると日本との関係が薄らいでくるし、日本政府もそのことに無関心すぎると言う。ドイツやオランダは移民が自国を向くように(自国の国益にかなうように)必死で政策を持っているのに、日本政府は無関心すぎると辛口である。確かに大資源国ブラジルに150万人の日系人がいることは、我が国にとっても大きな大きな財産である。このことを今一度再認識したい。

5.夕方には、100周年の記念の植樹(、⑪)。将来それなりの立場になってまた訪問する機会があれば、この木がどのくらい成長するか見てみたいし、この木はこの木で、「お前がどのくらい成長するか見てやろう!」と思っているかもしれない(笑)。
夜は、麻生さん、総領事はじめ随行団でブラジル料理「シュラスコ」(肉料理)の夕食会()に、ボサノバを聞きながらバーで一杯。少しだけくつろいだ夜である。