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GW出張報告(その4:ヨルダン編)
1.ワシントンDCから、エア・フランスにてパリ経由でヨルダンのアンマンに入った。河野太郎代議士が窓口となって開催している「日本・中東若手リーダーズ・コンファレンス」への参加である。昨年もこの5月に誘われたが、昨年はインド訪問した(昨年の活動報告参照)ため、参加できなかった。今年は、翌5日に、私から日本と中東のFTA(自由貿易協定)について、プレゼン(問題提起)する予定である。
2.空港には、大使館の人はおらず、小柄なヨルダン人が「YASUTOSHI NISHIMURA」の札を持って立っていた。ついていくと、確かに入国の手続きなどスムーズにやってくれる。しかし、うまく英語が通じない。ものすごく不安になりながら、彼の小型車に乗り込んだ(たぶん、サニー)。しかも、助手席に乗れ、との合図である。猛烈な勢いで飛ばしながら、なんやらぶつぶつしゃべっているが、何のことやらわからない。「ホテルに行くのか」と聞くと「イエス、イエス」と大きくうなづくが、ただひたすら飛ばしている。着いたのは、どうやらレストランのようである。
3.中に入ると、ヨルダン政府の方が待っていてくれて、間もなく河野太郎代議士たちが到着。ほっと一安心だが、いきなり河野さんから「今回の会議はすべて延期になりました。国王への謁見も昨日終わったし、明日は世界遺産“ペトラ”に行くんです。西村さん、申し訳ない。せっかくワシントンから14時間もかけて来てくれたのに、公式行事はすべて終わりました。今日は、思う存分飲んで食べてください。今夜のデイナーは西村さん中心にしますから」と言われ、虚脱感に襲われた。しかし、そこは中東、いつものことと気を取り直して、ヨルダンの外務大臣や外交委員長も参加する夕食会で、乾杯の音頭を取った。
4.夕食会は楽しかった。ヨルダン政府の高官は、アメリカ留学組が多く(特に、ジョージタウン大学)、その一人であるハティーブ外務大臣とは、ワシントンDCの話やFTAの話で盛り上がった。特に、外務大臣は「(紅海につながる)アカバ港を上手く使ってほしい」と強調していた(しかし、後で、大使館の人に聞くと「ヨルダンはアカバ港しか海につながっていないため、アカバ港はもう手一杯ですよ」と言っていた)。また、女性のアリ・計画大臣も途中から参加してくれたが、中々の美人であった。左手の薬指に大きな指輪をしていたが、経歴に家族構成についての記載がなく、後で、議員仲間で「独身だろうか」とささやきあった次第である。
5.翌日は、世界遺産の「ペトラ」訪問である。ペトラは、イランの「ペルセポリス」、シリアの「パルミラ」と並んで「中東の3P」と称される遺跡であり(ちなみに、14年前にイランのペルセポリスは訪れたことがある。なお、世界三大滝と言われる米国・ナイアガラの滝、ブラジル・イグアスの滝、アフリカのジンバブエとザンビアの国境にあるビクトリアの滝はすべて制覇している。こんな国会議員がほかにいるだろうか)。映画「インディ・ジョーンズ」の舞台となった場所である。コンファレンス(会議)はなくなった(延期された)ものの、あのペトラに行けるのなら、14時間かけて来た甲斐があった、というものである。アンマンからバスに揺られること、2時間半。いよいよペトラである。
6.入口から、紀元前の「ナバティ」族の墓を見ながら、岩の裂け目をただただ歩いていく。約1時間後。ガイドが突然「上を見ずに下を向いてここから10数えながら前に進んで下さい。そして顔を上げてみて下さい。」と言い出し、その指示に従って顔を上げてみると、なんとそこには岩の裂け目から、巨大な遺跡が現れた。驚きである。こんな奥にこんな遺跡があるとは。どこかエジプトのアブシンベル宮殿を思わせる、巨大な墓である。ガイドからエジプト文明の影響を受けているとの説明を受けた。直感に間違いはなかった。
7.さらに、ローマ文明の影響を受けた「劇場」、シリアの影響を受けた墓などなど、ペルセポリスとは比べ物にならないほどの広さである。まさに、この地は、中東の交易の中心であり、時代時代に様々な文明と交流し、その影響を受けながら発展してきたのである。どこか日本と似ている。いろんな文明のいいところを吸収しながら発展しているのである。しかし、その文明も二千年もの年月を経た今、この様である。中東の最貧国の一つになってしまった。ヨルダンは、石油がない、ということもさることながら、水がないことも辛い点である。なかなか製造業の生産施設も作ることができない。新たな文明を生み出すことはできなかったのである。あれほど栄えた国も力を失う。我々日本もしっかりしなければならない、そんな思いを強くしたペトラ訪問であった。
2.空港には、大使館の人はおらず、小柄なヨルダン人が「YASUTOSHI NISHIMURA」の札を持って立っていた。ついていくと、確かに入国の手続きなどスムーズにやってくれる。しかし、うまく英語が通じない。ものすごく不安になりながら、彼の小型車に乗り込んだ(たぶん、サニー)。しかも、助手席に乗れ、との合図である。猛烈な勢いで飛ばしながら、なんやらぶつぶつしゃべっているが、何のことやらわからない。「ホテルに行くのか」と聞くと「イエス、イエス」と大きくうなづくが、ただひたすら飛ばしている。着いたのは、どうやらレストランのようである。
3.中に入ると、ヨルダン政府の方が待っていてくれて、間もなく河野太郎代議士たちが到着。ほっと一安心だが、いきなり河野さんから「今回の会議はすべて延期になりました。国王への謁見も昨日終わったし、明日は世界遺産“ペトラ”に行くんです。西村さん、申し訳ない。せっかくワシントンから14時間もかけて来てくれたのに、公式行事はすべて終わりました。今日は、思う存分飲んで食べてください。今夜のデイナーは西村さん中心にしますから」と言われ、虚脱感に襲われた。しかし、そこは中東、いつものことと気を取り直して、ヨルダンの外務大臣や外交委員長も参加する夕食会で、乾杯の音頭を取った。
4.夕食会は楽しかった。ヨルダン政府の高官は、アメリカ留学組が多く(特に、ジョージタウン大学)、その一人であるハティーブ外務大臣とは、ワシントンDCの話やFTAの話で盛り上がった。特に、外務大臣は「(紅海につながる)アカバ港を上手く使ってほしい」と強調していた(しかし、後で、大使館の人に聞くと「ヨルダンはアカバ港しか海につながっていないため、アカバ港はもう手一杯ですよ」と言っていた)。また、女性のアリ・計画大臣も途中から参加してくれたが、中々の美人であった。左手の薬指に大きな指輪をしていたが、経歴に家族構成についての記載がなく、後で、議員仲間で「独身だろうか」とささやきあった次第である。
5.翌日は、世界遺産の「ペトラ」訪問である。ペトラは、イランの「ペルセポリス」、シリアの「パルミラ」と並んで「中東の3P」と称される遺跡であり(ちなみに、14年前にイランのペルセポリスは訪れたことがある。なお、世界三大滝と言われる米国・ナイアガラの滝、ブラジル・イグアスの滝、アフリカのジンバブエとザンビアの国境にあるビクトリアの滝はすべて制覇している。こんな国会議員がほかにいるだろうか)。映画「インディ・ジョーンズ」の舞台となった場所である。コンファレンス(会議)はなくなった(延期された)ものの、あのペトラに行けるのなら、14時間かけて来た甲斐があった、というものである。アンマンからバスに揺られること、2時間半。いよいよペトラである。
6.入口から、紀元前の「ナバティ」族の墓を見ながら、岩の裂け目をただただ歩いていく。約1時間後。ガイドが突然「上を見ずに下を向いてここから10数えながら前に進んで下さい。そして顔を上げてみて下さい。」と言い出し、その指示に従って顔を上げてみると、なんとそこには岩の裂け目から、巨大な遺跡が現れた。驚きである。こんな奥にこんな遺跡があるとは。どこかエジプトのアブシンベル宮殿を思わせる、巨大な墓である。ガイドからエジプト文明の影響を受けているとの説明を受けた。直感に間違いはなかった。
7.さらに、ローマ文明の影響を受けた「劇場」、シリアの影響を受けた墓などなど、ペルセポリスとは比べ物にならないほどの広さである。まさに、この地は、中東の交易の中心であり、時代時代に様々な文明と交流し、その影響を受けながら発展してきたのである。どこか日本と似ている。いろんな文明のいいところを吸収しながら発展しているのである。しかし、その文明も二千年もの年月を経た今、この様である。中東の最貧国の一つになってしまった。ヨルダンは、石油がない、ということもさることながら、水がないことも辛い点である。なかなか製造業の生産施設も作ることができない。新たな文明を生み出すことはできなかったのである。あれほど栄えた国も力を失う。我々日本もしっかりしなければならない、そんな思いを強くしたペトラ訪問であった。